2017年7月11日火曜日

私は座っている巣守隆康に近づいて腕を引っ張った。

「な、何ぞ?」

「トイレ!便所!厠!――外は暗いから着いてて!れ・い・よ!」

うろ覚えの古文的活用形と知ってる限りのトイレの別名を挙げながらぐいぐいと引っ張っても、馬鹿殿は戸惑うばかりでなかなか分かってくれない。ああ、もう!
尿意にもじもじしていると、婆さんが恐る恐る「尼御前」と声を掛けてきた。

「こなたは田舎いなかびたるしず樋箱ひばこ虎子こしのたぐいも無く……許したまえ。」

恐縮した様子で指をついて深々と頭を下げるので、その140㎝ぐらいのちっこい体がますますちっこく見える。
ひばここし?つうか、なんで婆さんが頭を下げるのか。
しかし婆さんが何事かを謝ったおかげか、巣守隆康は状況を理解してくれたようだった。

「ああ、心得こころえたり。何ほどのことやあらん。そもそもより見るに知らえんことじゃ。田舎の作法さはう、我がおしうてしんぜう。」

言って立ち上がり、「さ、参らうぞ」と反対に私を引っ張って外へ出る。

「真っ暗、足元が」

見えない、と言う前に、巣守隆康の家紋がぼうっと光りだす。

「闇夜に物怖ものおじせしは、をさなき子供の如きものか。」

子供みたいだって言われても。肩を震わせだした馬鹿殿に私は憮然とする。
家から数十歩離れた草むら近くまでやってくると、彼は手を放した。
その辺の地面を足でバンバンと踏み鳴らし回った後でこちらに戻って来た。

「うわっ…!」

家紋が光を一瞬増したかと思えば、私の周囲が半透明な膜のようなもので包まれる。
ちょうど、青白く光る大きなシャボン玉の中にいるみたい。

「こは木瓜紋、巣守が加護の一つ『巣籠すごもり』。化物けしょうのものなど寄らねば心安こころやすうしたまえ。」

そう言って、巣守隆康は五、六歩ほど離れて背を向ける。
この不思議な膜で守ってやるからここでしろっていう事か。
しゃがみつつ着物を捲っていると、はっとある事に気付く。

「耳!耳をふさいで!」

ふたいでおる」

巣守隆康が笑い交じりに両耳に指を突っ込んだのを見届けると、私は無事に用を足した。


***


拭くものがないのは仕方がないけれど、それは贅沢というものだろう。
大の方、どうしよう…まあその時こいつに聞けばいいか。
ともあれ、一度スッキリすると精神的に余裕が出て来る。

「終わりました、かたじけのうございます。」

言いながら、不思議な青白い膜にドキドキしながら手を伸ばす。
巣守隆康はすり抜けていたけど、何なんだろう、これ。
私もすり抜けるのか、それとも感触があるのか。

けれども指先が膜を触れる瞬間。
それは予想に反して、シャボン玉が弾けるようにいきなり消えた。

「えっ?」

周囲は暗闇に戻る。
巣守隆康の方はと見ると、彼の家紋も光るのを止めていた。


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樋箱ひばこ→「大」用のおまるのこと。
虎子こし→「小」用の壺。

「こなたは田舎いなかびたるしず樋箱ひばこ虎子こしのたぐいも無く……許したまえ。」
→「こちらは田舎のあばら家で、樋箱ひばこ虎子こしといった(上等な)ものはないのです…お許しを。」

「ああ、心得こころえたり。何ほどのことやあらん。そもそもより見るに知らえんことじゃ。田舎の作法さはう、我がおしうてしんぜう。」
→「ああ、合点がいった。(老婆に向けて)気にするな。(樋箱ひばこ虎子こし等が無いのは)はじめから見て分かる事だ。田舎のやり方を私が教えてあげよう。」

「闇夜に物怖ものおじせしは、をさなき子供の如きものか。」
→「夜の闇に怯えるのは、まるで幼い子供みたいだな。」

「こは木瓜紋、巣守が加護の一つ『巣籠すごもり』。化物けしょうのものなど寄らねば心安こころやすうしたまえ。」
→「これは木瓜紋、巣守の加護の(力の)一つ『巣籠すごもり』。化け物のたぐいは近づいて来ないから安心しなさい。」

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