2017年6月16日金曜日

緑茶仙女【1】

「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る♪」

4月、一斉に花開く春。
今日は実に良い天気だ。
遠くの黄色い菜の花が揺れて、目の前をぶうん、とミツバチが横切って行く。
八十八夜――五月の茶摘みに向けて、神久保妙香かみくぼたえかは茶摘みの歌を口ずさみながら
茶畑でクレモナ外しを手伝っていた。
クレモナとは、茶の畝に被せる覆いの事である。
覆いをすることでカテキンなどの苦み成分の生成を抑え、おいしいお茶が出来上がるのだ。

「あれに見えるは茶摘ぢやないか♪」

綾香の歌を引き取って歌うのは畝の向こうにいる母である。
母娘は畝を挟んで歩き、クレモナを両端を固定していたピンチを外しながら巻き取っていく。

大きな一枚畑を外し終わるのに、午前中いっぱいかかる。
ちょうど12時になり、お昼にしようかということで畑に散らばっていた父、叔父を呼んだ。

妙香は農帽と手袋を外し、母から受け取った冷たい麦茶をのどに流し込むと息を吐いた。
うっすらとかいた汗をぬぐって落ち着くと、皆で弁当を囲んで突つく。
のどかな春の農村の風景とは裏腹に、これから繁忙期になるとお茶農家は殺気立ってくる。
父や叔父を眺めながら、平日は会社勤めの自分はともかく、と彼らの機嫌に付き合わされる母を憐れに思った。
不幸中の幸いとしては今年は気候に恵まれていいお茶が出来たということだ。


***


昼食も終わり、父が茶摘み機を取りに行くべく一時帰宅する。
妙香達は残って次の茶畑に移動してクレモナ外しである。
次の茶畑は山を切り開いて作られた畑になっていて、場所によっては傾斜がきつい。

全国で唯一お茶の神様を祀る神社があり、そこには昔の偉いお坊さんが中国より持ち込んだ「大茶樹」と呼ばれるそれはそれは大きなお茶の木が植わっていた。
妙香は小さな頃から神社で遊び、大茶樹を見上げてはその枝葉からの木漏れ日に目を細めたものだった。
いつも見守ってくださりありがとうございます。
妙香は神社に向かって手を合わせ、クレモナ外しに取り掛かる。

「おーい、精が出るねー!」

声にふと顔を上げると、茶摘み機がこちらに向かってくるのが見えた。
神久保家と同じ茶工場を使っている、顔見知りのおじさんだ。
お茶農家はお茶の葉を収穫した後、茶工場に持って行き、それを荒茶に加工する。
その作業は昼夜問わずひっきりなしに行われ、茶工場はフル稼働である。
おじさんが畑を収穫し、茶葉が荒茶になったタイミングでうちの番になる。
この時期はみんなピリピリしている筈なのにこのおじさんはマイペースだ。

おじさんに手を振り返してから妙香は巻かれたクレモナをトラックに運ぶ。

「何か一雨来そうね。天気予報では曇りって言ってたけど…」

母が空を見上げて呟いた。見上げるといつの間にか曇っていた空からポツリと雨が降って来る。

「案の定。でも小雨位だから。それよりもクレモナを早く家に運ばんと。」

叔父が言うのを聞きながら、妙香の視界におじさんが茶畑へ上がる急な傾斜で立ち往生しているのが見えた。

「おじさん大丈夫?一旦下がったほうが良くない?」

言いながら、苦しんでいるような茶摘み機の近くに行く。「後ろ、見といてあげようか?」

「いや、いいよ。これは機械の故障だと思う。これもそろそろ寿命かなぁ。雨が降ってきたし、妙ちゃんは家に戻ったほうがいいよ。」

「そう?たぶんもうすぐ父さんが来るからもし助けが必要だったら言ったらいいよ。」

言って、妙香は踵を返す。

「妙ちゃん!」

慌てたようなおじさんの声。
妙香が振り向くと、傾斜を上っていた茶摘み機がぐらり、とこちらに向かって傾いているのが見えた。

逃げる暇もなかった。
衝撃と共に目の前が真っ暗になり息ができなくなる。
叔父の怒号、母が泣き叫ぶように自分の名を呼ぶのが聞こえ。

それが妙香の最後の記憶になった。

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